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「福島・三春の“収穫祭”2012に参加して」・・・S・H(茨城・取手)さんからの手紙「この地から見る日本の姿の原風景に心を揺さぶられた・・・  山崎芳彦

「福島・三春の“収穫祭”2012に参加して」・・・S・H(茨城・取手)さんからの手紙「この地から見る日本の姿の原風景に心を揺さぶられた・・・」   
 山崎芳彦

 去る10月20日~21日に福島県三春町で「福島・三春の“収穫祭”2012」が開かれた。昨年に続いて2度目の収穫祭だが、現地の芹沢、農産加工グループ、福島「農と食」再生ネット、滝桜花見祭実行委員会の3団体が主催、三春町、JAたむらが協賛している。
 筆者は春の花見祭・交流会に参加し、原発に頼らない生産と暮らしをめざす太陽光農民発電による農産加工への取り組み・「農と食」再生ネットワークを、つまり人間の「生きる」根源への自覚的な力の構築を目指すためのひとつの根拠地を多くの人々の共感と協働の力でつくりあげる、理念と実践に感動したひとりで、今回も参加を申し込んでいた。
しかし、自分の住んでいる市の理不尽な小学校統廃合計画による地元小学校(母校でもある)の廃校を阻止する取り組みの強化のための集会と重なってしまったため、欠席を余儀なくされ、迷惑をかけてしまったのだった。

三春の収穫祭の呼びかけには「土の放射能を計り、耕し、種をまき、取り入れ、収穫物の放射能を計る。放射能を計ることが日常となった営みが三春では続いています。芹澤農産加工グループの加工所には、多くの方々の協力を得て、太陽光発電所が完成・・・ささやかですが、原発に頼らない生産とくらしを作り上げる足元からの実践です。今年の収穫祭はこの太陽光発電の稼働を記念するシンポジウム(車座座談会)を織り込み、地域との交流を一層深める」として、魅力的な企画内容が示されていた。
現地での昼食、野菜収穫、収穫した野菜の放射能検査、宿泊、そして2日目は「エネルギー自給と農・食・地域の自立」をテーマとしてのシンポジウム(三春町/JAたむら/三春の女たち/宮城・石巻、千葉・成田、山形・置賜からの報告と質疑討論)その他の企画は、営々と続けられている生活のなかでの未来を切り拓く実践とその到達点を踏まえたものであるのだから、本当に参加したかった。

プログラムのシンポジウムに関する記述の、
「3・11から1年半が経ちました。放射能に対する人々の不安は強まりこそすれ、薄まることはなく、被災地での人びとの暮しも揺れ動いています。それでも人びとは生きなければならず、田んぼや畑を、家を、お墓を、何より家族を守るための日常を過ごしています。私たちは2011年4月以来、三春町の女性グループとの交流を続け、大勢の皆様のお力を得て、足元から“原発いらない”を発信するために「太陽光発電で農産加工」を行なう一歩を踏み出しました。・・・」
の文章には、書いた人の顔が見え、共に取り組んだ人びとの心があると、感動した。スローガンを唱えるだけの人には書くことのできない、短いけれど、現在と未来に真摯に生きる人間の宣言ではないだろうか。
 参加できなかった筆者にも感動を与えてくれる三春の収穫祭2012だったのだから、参加した人々の得たものの大きさをうらやましいと思う。

 そんな私に、参加した友人のS・Оさんから、手紙が届いた。ご本人の承諾を得てほぼ全文を紹介させていただく。次のとおりだが、Sさんは、「参加出来なかったあなたへの、感想のつもりで書いたものだから、全容ではないし、不正確な部分もあるかもしれない。」というが、私にはしっかり伝わった。このようにして、地道な、しかし壮大な一歩一歩が広がり続くのだと思う。そのなかに自分もいなければならない。

 ▼「福島・三春の“収穫祭”2012」に参加して S・Оさんからの手紙

2012年10月20日(土)、私は3度目の三春へのバスに乗った。
2011年3月11日の東日本大震災を受けて少なくとも私のなかには焦燥に似たものが芽生えた。これまでの生き方、これからの国。少しは自覚的にくらしてきたように思っていたが、くらしの利便性に埋もれいつか原発のことも視覚の隅に置いたままにしていた私。

三春町のJA女性部との交流は、最初はよくわけもわからず、古くからの友人である農業ジャーナリストの西沢江美子さんの誘いで、昨年の秋の収穫祭に参加したのが出発点。次いで今年4月の滝桜花見交流会へ。そして今回の収穫祭へとやってきた。芹沢農産加工所という、女性部の小さな作業場に太陽光パネルを設置し、その発電式でもあった。
西沢さんや福島の女性たちの福島「農と食」再生ネットの地道な活動の上に滝桜花見実行委員会への広がりができ、そしてまた私にも声がかかった。
まったくのお邪魔ムシの私が訪ねるたびに、この地に、この地を通してみえてくる日本の原風景ともいうべきものに心ひかれていく。福島は美しい山並み、田畑の風景はそのままに放射線に汚染され、風評被害にさらされ、頼りにならない政治に翻弄され町村ぐるみの避難地域、耕作禁止、自主避難区域その他の線引きで家族間もバラバラにされている。
低放射能地域の三春には仮設住宅に他町村の人たちが住んでいる。道路の角に葛尾村仮設住宅などの表示があり、ちょうど21日(日)は村長選挙の日であったことを帰宅してから報道で知った。

わたしが原風景と感じたのは自然の美しさばかりではない。この、田舎といわれる地にくらす人々の農や漁に食を支えられ、グローバリズムという名でそれらの生業もおびやかされながら、黙々と、淡々と続ける一次産業の地が都会のキラビヤカさを保障する原発立地の地であること。まさに日本の姿の原風景が、今回、私の心のなかを揺さぶる。それは福島からの帰途のバスが東北道を抜け首都高速に入った時の東京の明るさ、スカイツリーのすみれ色のライトアップ、東京駅前の並木道のピンクのイルミネーションの華やかさ。数時間のバスの旅での落差に私のなかの揺らぎが形をもった。

今回は私も少しは能動的でよい体験もできた。20日に「ベクレルしらべるセンター」に行き、実際に収穫したネギとサトイモの茎を機械にかけてもらった。この機械での測定下限値は20ベクレル/10g未満。土のついている部分は切りおとす。5ミリ以下のサイコロ状に切って、フードプロセッサーなどは使用してほしくないとのこと。JA三春の会沢さんは、玉ネギ、ショウガ、トウガラシを切るのがつらい、また固いものも大変と言う。
野菜は500gの検体を30分かける。円筒の容器に入れスイッチオン、パソコンに波動が表われる。急ぎのときは15分のときもあるという。ここで自家栽培した野菜を検査し、自己消費し、また直売所にも出すのが日課になっているという。人口16000人ぐらいの三春町は1台250万~300万円のこの機械を9台買い、JA田村が4台、他に富岡町も1台あるので、この周辺では去年の9月13日から10台が稼働している。

翌日のシンポジウム(車座座談会)では各地からの報告がそれぞれ印象的だった。
▼「JA田村」の営農経済部長さんは、県外のスーパーなどで産直コーナーの売場に立つが、つらい経験もする。産物はもとより宣伝用のうちわも受け取ってくれなかったなどの経験談もあった。学校給食も地元産を使っていない。米の全袋検査機は7基あり、1基2000万円した、農産物価格は従来の半額・・・などの話もされた。

▼石巻から参加の佐立さんの話。水産業・漁民たちにとって復興の見通しもたたないなかで、株式会社に「漁業権」を持たせる「特区事業」を持ちこもうしている知事。仮設住宅の劣悪さの中で心身が大変、住みたいところに住むことと自然との向き合い方、住居とは何か、ただ雨風をよけるだけのものか・・・重い課題に挑戦しようとしている。

▼山形からの菊池さんの話。山形で米沢牛を大切に飼育し、飼料も宮城の大崎のワラを使っていた。福島の浅川町でワラからセシウムが出たという報道があったが、まさか大崎のワラもとは思っていなかったのに、すでに出荷してしまった牛4頭中3頭の販売は中止に。山形県内で同じワラを買った4人、A、B、C、Dさんと報道された。すべての原因と責任は東電と国にあるのに大崎のワラの販売者、買った菊地さんたち、基準値以下だったが消費者に売ってしまった肉屋さんが苦しみ続けた。誰にも責められていないが、みんなに責められている気持ちと、菊地さんは表現している。

もっと多くのことが話し合われたが、シンポジウムの後、帰途のバスは三春町の隣の田村市「都路地区」に向かった。ここは収穫祭で私たちの食事の世話などエネルギッシュにしてくれる松本さんの家のある所。田畑はつくれないので、三春の会沢さんの畑を借りている。いうまでもないが耕作されない田畑は荒れている。最近は見ることが少なくなったセイタカアワダチ草がここぞとばかりに伸びに伸びている。その一画に黄金色に輝く稲穂の田が。「稲試験栽培第11号ほ場」の看板が立ち黄色いテープで囲われていた。

女性部の加工品を購入し1日、2日の訪問で何か役にたつのだろうか、いちまつの後ろめたさがいつもある。この集いのうしろには、主催者の再生ネットをはじめとする方々の長いつきあいと信頼の絆があることをいつも思う。その一端をちょっと握りつつ、計りしれない学びをいただいている。
福島から遠くはなれたこの取手市でも、いつもどこかに放射能汚染の不安をかかえ、思考を重ねて暮らしているのだから。

以上がS・Оさんからの手紙だが、彼女は私同様に参加希望していながらできなかったほかの人にも同じように報告、感想を書いているという。

私のように参加申込みしながら不参加となった人は少なくないと聞いた。
東京からの参加者のためにはバスを借りたのだから、主催者はそのぶん赤字を負うことになったに違いない。カンパをしなければと、私は考えている。それも行動のひとつだろう。
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[ 2012/12/29 15:12 ] 三春リポート | TB(0) | CM(0)

「福島のトラックが来ると放射能がばらまかれる」 福島差別の渦中に身を置いて感じたこと  大野和興

  福岡市の市民グループが進めていた福島支援ショップが開店中止に追い込まれたニュースは、新聞、テレビで報じられて全国に知れ渡った。「福島からのトラックは放射能をばらまく 」などといったメールが相次ぎ、店舗を貸すオーナーが運営する市民グループに 出店をやめてほしい と断ったためだ。実はこのプロジェクト、筆者を含む仲間と福島県の農村女性グループが共同で取り組んでいる福島の農と食を再生をめざすささやかな実践に、北九州で有機農産物の生産と流通をおこなっている市民資本の事業体九州産直クラブが共鳴、市民に呼び掛け「ふくしまショッププロジェクト」を立ち上げて進めてきたものだ。福島差別の渦中に当事者の一人として身を置いてみて、その陰湿さに驚嘆すると同時に、こうしたことを許す日本の社会に暗然となった。(2011年9月11日記)

  原発事故は地域に住む人からあらゆるものを奪ったが、なかでも土に生きる農民と海に生きる漁民は生存の基盤そのものが揺さぶられた。農業記者としてそんな現実の中に飛び込み、何かできないかと探っているときに出会ったのが福島第一原発から50キロ圏のところにある三春町の農業女性であった。三春町でJA女性部を中心に農村女性運動に取り組んでいる会沢テルさんと農村女性問題に長年取り組んでいるジャーナリストの西沢江美子さんの手引きで、首都圏のNGOや市民が三春と出会い、さらに輪は九州で有機農産物の生産・流通に取り組む九州産直クラブ、関西で活発な労働運動を展開、今年度の賃上げ分を全額東日本の震災復興支援の投じることを決めて活動している生コン関連の労働組合に広がった。

  震災と原発事故は、これまで農村の女性がコツコツと積み上げてきた、自立への試み、有機栽培や産直や直売、加工の実践を壊してしまった。三春町でも、村の女性たちは小規模な直売と加工を熱心に取り組み、国民年金プラスこの収入で暮らしを立てていた。直売・加工の崩壊はそのまま生活の崩壊につながる。いま女性たちはもう一度再生に向けて取り組みたいと歩きはじめている。大市場に向けての大きなシステムづくりではなく、そうした小さな仕組みの再生を応援したいと考えたのだ。

  いくつもの新しい提案が動き出している。自分たちの生産した農産物を加工するに当たり、女性グループでは加工のエネルギーを自然エネルギーでやる方向が出されている。原発被災地の足元から、草の根の脱原発の実践がつくられようとしている。

  問題は生産し、販売される農産物の安全性である。食べる側の人以上に作る側の女性 たちはそれを心配し、不安にさいなまれている。行政や農協の検査を十分活用しながら、それに加えて作る側と食べる側が共同で自主検査を行い、お互いの納得の上でだめなものは捨てることを含め、この問題を乗り越えていくことが話し合われている。

  こうして動き出した第一弾が福岡市における「ふくしまショッププロジェクト」である。福岡市内の繁華街の商業施設「マリノア福岡」のいっかくにある農産物直売所「九州のムラ市場」のなかに9月17日開店をめざし、準備を進めていた。福岡市内の福島県人会や福島から避難してきている人たちがボランティアで応援する体制も作られつつあった。出店する品目は、原発事故以前の昨年収穫したもち米で作ったもちや梅干し、みそなど農家の女性たちが手作りした農産加工品で出発することになっていた。

  このことが報道されたとたんに、店舗スペースを貸した企業と運営主体の九州産直クラブにメールや電話での非難の声が寄せられた。メールは十数通が寄せられたが、いずれも強い調子で福祉な支援ショップを非難するものだった。「九州に福島の物を持ち込むな」「地域に汚染が広がる」「福島のトラックが来るだけで放射能がばらまかれる」「出店をやめないなら不買運動をやる」といったものだ。

  店舗の側は他の店に迷惑がかかると困ると、「ふくしまショッププロジェクト」に出店を断り、プロジェクトの側も断念せざるを得なくなった。九州産直クラブ代表で、同プロジェクトを推進してきた吉田登志夫さんは、9月8日の記者会見で、風評被害の怖さを改めて知ったと語ると同時に、「ふくしまショッププロジェクト」を断念したわけではなく、仕切り直しをして進めていくと語った。若いスタッフも、こんなことにくじけないで、腰を落ち着けてじっくりやります、と話していた。
  また三春町の女性グループも、「地域で生きて、原発のない社会をめざすためにも、農の営みをあきらめないで、地道に、応援してくれる方々とともに歩みたい」と話している。
[ 2012/07/12 00:42 ] 三春リポート | TB(0) | CM(0)

種をまく女たち- 原発から四七キロ、福島県三春ではじまった農村女性の取り組み-

種をまく女たち
 原発から四七キロ、福島県三春ではじまった農村女性の取り組み  西沢江美子


西沢江美子
会沢テル

 東日本大震災の後、「わたしには何ができるのか」、「できることをしよう」というつかみどころのない言葉が目立っている。地震と津波という目に見える被害だけでなく、原発事故・放射能汚染という五感で受け止められない大きな不安や苦悩にさらされているからである。とりわけ福島県民にとっては、文字や言葉で表せない苦しみが日を追って深まっている。同時に、原発事故の実態が少しずつ明らかになってくるにつれて、見えない放射能が、「何とかしなければ」「原発を止めなければ」と、怒りと不安と苛立ちを増幅させる。
 3月11日。あの大震災で私は多くの知人、友人を亡くした。いまだに連絡のとれない友人も二人。そんななか、出口の見えない原発事故の被害にさらされている友人・会沢テルさん(原発から四七キロの三春町在住)に寄り添いながら、そこで農民として生きる彼女に少しでも近づき、原発に対して共に闘うことにした。農村女性と共に生きてきたわたしの最後の仕事になるだろう。彼女たちに続く農村女性が原発のない大地で、安全な農作物をつくり、加工し、安心して喜んで食べてもらう日常を取り戻すための残りの人生であることを確信しながら、会沢テルさんとの「行ったり、来たり」が始まった。
  「外に出るな」、「窓は開けるな」、「畑をうなうな」……あれもだめ、これもだめ、何もかも止まってしまい、生きることさえ苦しかった。ただじっと部屋の中に座っているしかなかったあの時からのはかりしれない葛藤。行く末の見えない原発事故の被害のもとで暮らす一人の農業女性の言葉や文字から、その一端を知ってほしい。「テルとエミコの往復書簡」とでも言いたいが、電話、手紙、FAX、宅配便、そして福島県三春町への新幹線と、この三カ月間あらゆる手段で交流した。わたしと彼女のやりとりを、ご紹介する。(西沢江美子)

【会沢テル様】
西沢江美子
◆仲間と企画した「滝桜花見まつり」
 3月15日。携帯を持たないわたしがやっと会沢さんと連絡がとれた日。「大丈夫」といういつもの優しい声にほっとしました。とにかく顔を見たいと思っていたとき、友人が被災地へ行くことになり、そこに同乗しました。一年ぶりにお会いしたあなたは、何だかとても小さく、寂しそうでした。深く考え、先を見つめて歩いている、いつものあのあなたではない。一年前、三春町のシンボル「滝桜」の花見に誘ってくれ、春の冷たい雪に震える桜を見ながら、これからの農業女性の生き方、とりわけTPP(環太平洋パートナーシップ協定)を目前にしたときに、農協の女性部のあり方を問わなければと語り合いましたね。きっと、農協女性部活動をしつづけてきたあなたは、雪に震えながらもどっしりと開花している老木の桜に、その活動を重ねたのでしょう。
 あなたは「今年は放射能のせいで滝桜の花見もしてはだめなの。春なのに百姓が畑に出られないってある?」と怒っていました。気がついたらわたしは「花見やろうよ」と言っていましたね。背中を押したつもりだけど迷惑じゃなかったかしらとすごく悩んだの。でも、あの4月23日の「滝桜花見まつり」は、やってよかった。あなたにつながる地元の人、取り組んでくれた東京の人たち、そして九州や北海道はじめ各地からバス2台に乗ってきた応援の人たち。雨の中、「こんな時福島までなぜ行く」、「花見どころじゃないだろう」。そんな空気を突き破って滝桜へ。「今日の滝桜は何とも恐ろしい」、「おどろおどろしている」と我ことのように語る参加者の感想は、福島で生きる人びとの不安と怒りを共有し、農業や地域を元に戻す話し合いへと進められた。その会場には、三春町の町長さんもJAたむらの専務(現組合長)さんも参加。小さいが町をあげて、原発を止め、日常活動を取り戻そうというエネルギーがひとつになった気がした。「福島は危ない」という空気が流れていたときに、自分の言葉で「もういやだ」「畑を耕そうよ」と発し、自分たちの空気をつくるきっかけになった気がしました。

◆冬の花
 「お花」の話、聞かせてください。確かお花は切り花で直売所に出しているのですね。あなたの花を売って得るお金はバカにならない。いつだったか、あなたのつくったネコヤナギやムラサキシキブでのドライフラワーにびっくりしました。ドライフラワーといえば、バラなど「ドライになるもの」ということで決められているようなところが花の世界にはあります。
 あなたはそんなこと、まったく考えないで家の庭や道ばたや山や野にある花を束ねて直売所に出す。秋には、野や山の実や枝を乾燥させ、冬用のドライフラワーにする。三春町というこじんまりとした、山や野、川や道にめぐまれた、そのなかで生きている草や木をあなたの感性でまとめ、売っている。まるでそれは、小さな林の花屋さんでした。そんな会沢さんの花を愛してきたお客さんもあったのに、放射能と「フクシマはコワイ」というみえない、聞こえない声に、ドライのネコヤナギもムラサキシキブも納屋にぶらさげられたままでした。地元の人たちが待っていたお彼岸の花も、「外に出るな」という指示の出荷できませんでした。お墓参りにもいけないなんて、ひどいです。
 花に代表されるように、あなたの感性と三春町という地の利を生かし、いろんなものを商品化して、少量でも売れる場をつくってきた、農村女性たちのこれまでの活動の成果が、放射能でガタガタと崩れてしまったことを、納屋を見せてもらって痛いほど感じました。 


【西沢江美子様】
会沢テル
◆心の中の反対、「それではだめだったんだよね」
 迷惑なんてとんでもない。あの「花見まつり」がなかったら、どんどん出口のない、目標のない暗い春から夏へとなっていたかも。わたし鬱かなと思うことが何回もありました。少しあの日のことを書きます。その日はみそ作りが終わり、帰宅途中でした。農協女性部に入って約30年。安全な食べものを作ることを第一目標としてきたので、食べることの基本である調味料こそ自分の手でと、みそ加工場の許可を取り、大豆も、糀も自分たちで作っています。自家用みそだけでなく、委託みそ、販売用、そして漬け床の三五八(ルビ:さごはち)も作っています。これは冬の間の女たちの仕事で、収入にもなっています。その帰りでした。
ゴーというすごい音、不気味な空の色、そして雪が降ってきた。自動車を運転していた私は、ハンドルをとられ、パンクしたときのようによろよろと走った。瓦の落ちている家、割れた道路、倒れた石の像……何が起きたかわからなかった。テレビの映像だけが家の中で動いていた。何も考えることがなかった。やがて被災者との対応に追われ、被災者にストーブだ、毛布だ、日用品だと、役場からの連絡にただただ身体が走っていました。
あの頃は三春町は安全だったのか、被災者の群れは三春へ三春へと。朝・昼・夜の三交代の炊き出しも。そのうちに被災者自らが自分たちでやってみますと言ってくれ、材料だけ届けた。被災者との語りの中で、不自由な老いた母を抱えた人、老農婦など、自分と同じ世代が何もかも失って、親戚のところにも行けないと三春の体育館で暮らしている。声に出さなかったが、原発のことは心で反対を言っていた。「それではだめだったんだよね」。そういう富岡町から避難してきた女性の言葉に、身体を動かすことで考えまいとしていた原発をやめろという声が腹の底からわき上がってきました。こうした人たちと一つになって、原発を止めたいです。


【会沢テル様】
西沢江美子
◆日常を取り戻す事の大事さ
 実はわたしも、あなたと同じように三月一一日以後の何とも言えない空気に息苦しくて仕方なかったの。というのは、「計画停電」という名でに日代わりに一日二回も、時間にして三時間ほども、不定時で停電するのです。まるで、「ほら、原発がなかったら大変なことになるでしょう」といわんばかりでした。毎日毎日、朝新聞に出ている停電表を見て、それに合わせて生活をする。暖房は電気なしですむ旧式の石油ストーブで、ローソクを用意し、早い夕食をとって寝てしまう。
 わたしは商売をしていないからこれですむが、お店をやっている人は大変です。いつくるかわからない停電だから、食べ物屋などやっていられない。まるで東電が嫌がらせをしているようでした。その結果、わたしの近所でも何軒もの店が閉店してしまっています。ただでさえ不景気でせいいっぱい努力していたのに、この停電は街の小さな店を倒していったのです。三月、四月は卒業、入学、入社など祝い事や花見、春のお祭りと人びとが集う時期だったのに、誰いうともなく、「被災地の人たちのことを考えて」と集うことをやめていった。酒を飲んで酔っていたら非国民みたいな状況でした。銀座でさえ、電気を消して、息をひそめてるような、くらい街でした。関東の山奥の小さな集落の祭りまで中止されていったのです。学校の運動会を中止したり、縮小したところもあります。
 わたしの七十年の人生のなかで祭りや運動会が中止されたのは戦争のときだけです。この国を挙げての自粛ムードづくり。それに静かにしたがっているような空気。その一方でテレビは「がんばれ日本」一色。そのなかでもがきながら、遠い昔、幼少の頃のような押さえつけられていた空気の臭いと圧力をはねかえすことが、今すぐ必要だと思ったのです。
滝桜の花見祭りは、深い海の底からやっと上に浮き、一息ついた感じでした。
 テルさん、誰もが自立して生きる権利を持っているのですよね。生活の明かりを消し、声をひそめ、語りの場を閉じ、祭りをやめる。先人たちが長い時間をかけて築き上げてきた生活を誰も奪うことはできないはず。放射能で崩された日常を、一つひとつもう一度築き上げていきましょう。ゆっくりでいい、それが、原発をなくす道につながるはずです。


【西沢江美子様】
会沢テル
◆「土にさわるな」
 万一に備えて、私たちも避難の準備をしました。食料、衣類、寝具、日用品などを自動車に積み、ガソリンを満タンにしています。息子から「早くどこかへ行け」と心配され、やっぱり息子だなとうれしくなりました。外出は控え、それでも出るときはマスクと帽子、長袖姿。それに、土に触るな、種はまくな……苦しかった。三月は種をまくとき。農民にとって土に触れない、種をまけない、雑草をとれないのは地獄です。
 何よりもさびしかったのは、お盆用に作る花の種子がまけないことでした。わたしは野の花が大好きです。一つひとつが色も形もちがう。自然ってすごいですよね。その美しさを見られない人に分けてあげたいのです。それが花をつくり、売ることを始めた最初の思いでした。たとえ花を作ったとしても、人びとが外出できないのなら、花など買う人もいないでしょう。そんなときに、あなたと出会ったのです。「種子まこうよ、土掘ろうよ。安心して食べられるものは、みんなで食べようよ。昨年つくったものは安心よ。どんどん食べて、原発を止めようよ」。どうしてそんなにあなたは自信があるのかわかりませんでした。だけど、バス2台で来てくださった人たちは、みんな優しくて、何も「福島産は……」なんて言わずに、買い、食べてくださいました。

◆「風評被害」の被害者になって
 静まり返った三春の春に二台のバスは大きな穴を開けてくれた。福島の野菜は売れない、「風評被害」の当事者になってみて、この言葉がどれだけ当事者を傷つけているかしみじみ思い知らされています。心がずたずたになって血が吹いている。そんな時勢のなか「農民なら種子をまこうよ。放射能で食べられないものになったら一緒に泣き、怒ろうよ」というあなたの言葉に、少しずつ前が見えるようになってきました。希望は捨てない。
 二一歳で会沢家に嫁ぎ、今年で五十年。原発事故という表現できない不安に苦しめられているが、今年の「滝桜花見まつり」以来、恵泉女学園大学に講演に行くこともでき、次代の女性たちと語り、また、九州産直クラブの人たちは、三春町を中心に福島の食品を販売するために福岡県にお店をつくってくれ、全国ネットにものせて販売してくれるという。そして、この原発事故下で何としても生きていかなければならない女性の仲間たちに対して、大阪の連帯ユニオン関西生コン支部から暖かい基金をいただき、勇気が出てきました。これまで私たち農業女性は卵一個を積み立てて家計をつくってきました。その延長線上に加工直売所があった。それを原発はつぶしてしまった。

◆つながりのなかで
 いま、三春町には二つの町の被災者が仮設住宅に住み始めています。だから三春町には役場が三つあります。被災者がくらしていたところには、三春とはちがった歴史や文化があったのです。農作物も農業のやり方も、そしてくらし方もちがっていたはずです。それが今度の原発事故で消されてしまいます。
 わたしは、その農業の仕方や作ったものを加工するやり方、そして加工品を残したいのです。阿武隈山地の冷涼な気候を利用した凍みもちや凍みだいこんはその代表的なものです。被災者のみなさんが住むところに作業場を作り、私たちも教えてもらう。それをわたしたちの加工品と一緒に売っていけたらいいなと思っています。原発事故で福島の農家とくらしを消してはいけないと、被災者との出会いのなかで感じています。
 どうか力を貸してください。町長さんにも、その思いを伝えました。同時に滝桜花見祭りで出会い、我が事のように考えてくださっている九州産直クラブも協力してくださるとのことです。本当にありがたいです。
 こうした多くの仲間たちのつながりで、私たち原発被害の地・福島三春町に太陽光で加工場をつくり、小さいけれど、小さいからこそ、確かな食べものをつくっていきたい。それが、原発をやめさせ、人としての幸せな生き方を取り戻すことだと思います。長くなりました。今後ともよろしくお願いいたします。


[ 2012/06/10 13:36 ] 三春リポート | TB(0) | CM(0)